アイス・バケツ・チャレンジが苛めにしか見えない理由
もし、中学校で同級生に、牛乳の一気飲みをしろ。もしくは一万円をよこせ。と言われたらどうなるだろうか? 指名された人間は、自分以外の二人か三人を指名しなければいけない。などと言われたらどうなるだろうか?
間違いなく問題にされるだろう。下手すれば停学させられるかもしれないし、最悪の場合警察沙汰になるかもしれない。それほどのインパクトがある行為だろう。
だから、私はアイス・バケツ・チャレンジなるものにどうしても共感することができない。慈善行為だから構わないじゃないか。という問題ではない。慈善の押し売りより好ましくない慈善を強要するような行為であり、本質的には苛めと同様の構造がある。
自発的に慈善行為を行うことは素晴らしいことだ。称賛するに値する。しかし、強要して慈善行為を行わせるのは嫌悪する。個人的に税金を取るような行為にしか見えない。税金は民主主義の下、恣意的な力は働いたとしても、基本的には平等に分配されるものだ。それに対し、このチャレンジは民主的ではない。
別に、寄付は強要されていない。金を払いたくない人間は氷水をかぶれば良い。そう主張する人もいるかもしれない。だが、氷水をかぶったり、他の人を指名する義務を与えられる。この義務を拒否するならば、慈善行為を行わない人間というレッテルを貼り付けようとしている。どうして、このような素晴らしい行為に賛同しないのか。反社会的でケチな人間とみなすと言わんばかりの無言のプレッシャーをかけているのだ。
【アイス・バケツ・チャレンジ】氷水かぶりが大流行となった理由
にも書かれている通り、【誰かが直接これをやってと頼んできた場合、嫌な人間だと思われずに断るのは難しいですね】なのだ。
相手の望んでいないことを無理やり無言の圧力で行わせる。その構造は苛めでしかない。
アイス・バケツ・チャレンジは素晴らしい。天才的な閃きだ。などと主張する人もいる。けれども、どう考えてみても素晴らしくもないし、天才的でもない。アメリカ人特有の自分たちが生み出したものは最高って主張は滑稽にしか見えない。
個人的には馬鹿馬鹿しい行為にしか見えない。だが、批判することは容易ではない。アイス・バケツ・チャレンジを批判すると、批判した人が非難される構造にもなっているからだ。
要するに苛める人間が、苛めを非難した人間を非難することができる不可思議な構造を作り出している。
やり方に問題があろうとも困っている人を助けることができるならばいいじゃないか。そう言って問題の本質を隠そうとしているのだ。
もし、鼠小僧が現代にいて、善良な人間から金を盗んで募金をしていたとしたらどうであろうか。一部の人は鼠小僧をもてはやすかもしれない。マスコミは褒めちぎるかもしれない。もし、そうだとしても、私は非難するに違いない。金に色がついていなかったとしても、不正な手段で得たもので善意を行うことを肯定的に受け止めることはできない。
故に私はアイス・バケツ・チャレンジを肯定的に受け止めることはできない。否定的にしか考えることができない。勿論、寄付の理念を否定する気はない。困っている人を助ける行為を邪魔する意図など全くない。
だから、このチャレンジの一番の問題部分である相手を指名する行為、これはすぐに訂正するべきだ。可能ならば、逆指名するルールに変更するべきだ。
逆指名とは、このチャレンジを行う権利を受ける行為だ。つまり、チャレンジを行った人間は複数人に権利を譲ることを可能とする。チャレンジを行いたい人間は、誰かに依頼してチャレンジの権利を受け取って行えばいい。
チェーンメールは勝手にばらまかれるから問題なのだ。チェーンメールを欲しい人間が持っている人間に受け取りに行くならばどこにも問題は発生しない。興味がない人間は蚊帳の外に立っていればいいのだ。
待て待て、そんな権利、誰が受け取ろうとするのだ?
そう思われる方もいるかもしれない。だが、意外と欲しがる人は多いんじゃないかな? そう思わない?