病院に行ったら消費税増税を批判していた
風邪をひいた。バカではないことの証明。などと考える余裕はない。38.5度、車の運転はかなり危険だ。仕方がない。歩いていける病院に行こう。
健康保険証と財布をポケットに突っ込み、一番近くの医院に向かう。病院、というより、小学生の習い事に似た建物の中に入る。住宅のような三和土があり、靴を脱いでスリッパに履き替える。クラクラしそうな違和感を覚えながら、木製のカウンターの向こうに座っている丸々太ったタヌキ……じゃなくって、おばさんに診察券を出す。
「あんた、初めて?」
おばさんの態度にいらっとするが黙って頷く。
「あんた、初めてかい?」
殴りたくなった。だが、拳を握る力もない。
「はい」
「じゃあ、問診書いて」
「ええぇ」
「あんた、とろいねぇ。ここにあるじゃないの」
「書くものは……」
「そこにあんでしょ」
「ありませんが……」
「良く見な……へんねぇ、さっきまであったのに、これ使いな」
既に殺意マックスである。非暴力主義者の私だが、健康ならば黙って踵を返していたであろう。だが、そんな気力はない。処方箋をもらうまでの我慢我慢。その場で問診表を書こうとすると、
「あんた、体温計」
おばさんが指差す先には、空き缶の中にオムロンの電子体温計が一つ。
「測ってきましたけど」
「何言ってんのあんた、家から来る間に変わったかもしれないじゃない」
言っていることは間違っていない。可能性としては否定できない。しかし、歩いて五分の距離だ。十分も経っていない。無意味としか考えられない。それに、その空き缶の中の体温計は使いたくない。
「でも、すぐ……」
「あんた、測りなさいって。測って損することないじゃない」
おばさんは私の言葉を聞く気がないらしい。相手にするのも疲れるから、体温計を取りトレーナーの丸首から突っ込んで腋で挟む。三分だか、五分だか経って音が鳴ったので取り出し体温を確認する。さっきと同じ38.5度。カウンターでその数値を書こうとすると、
「あんた、何、勝手に書こうとしてんの。見せてごらん」
おばさんに体温計を渡す。
「38.5度、ほら、問診に書きな」
このおばさん、殴っていいよな? 捕まらないよな? 私は悪くないよな? 心の中でフルボッコにしながら、問診表に数値を書き入れる。
「順番が着たら呼ぶから待ってて」
もう、腹立たしさすら覚えない。怒りのエネルギなんてとうに失われている。私は言われるがままに、壁際の長椅子に腰をかける。横には一人の柔和なおばあさんがいるだけ。すぐに呼ばれること間違いなし。
そう思っていると、新しい患者が入ってきた。どうみても元気そうなおじいさんだ。口を半開きにして、こんにちはぁーと大きな声を出す。
「あらー、久しぶりじゃない」
おばさんの態度が変わる。反射的に奥歯を思いっきり噛む。音叉を間近で鳴らされたような頭痛が全身を伝播していく。
「最近、厳しくなったからのう。毎日のように来れんのだよ。これで消費税が上がったなら、二週間に一回のペースになっちまうわい」
「それは、困りましたねぇ」
二人の笑い声が、頭蓋骨をきしませる。頭が痛い。助けてくれ。
「サラリーマンの税金を上げればいいんじゃ。ほんに、わしらのような弱者の負担ばかり増やすようなことばかりやりおって」
「そうですわねぇ。また、J党にはお灸をすえないといけませんわねぇ」
「前の選挙ではI会に喧嘩を売ったJ党を叩きのめしたからのう」
「でも、ほら、M党にしたら、うちらもお灸をすえられちゃいましたからねぇ」
「ほうよのう」
鬱陶しい。耳栓でもないものか。犬のように荒い呼吸を繰り返していると、おばあさんが呼ばれ、別室に消えていく。もうすぐだ。我慢しろ。病人なんだ。難しいことを考える必要はない。呪文のように繰り返していると、おばあさんはすぐに別室から出てくる。おじいさんとおばさんの会話は続いたままだ。
嫌気も溜まれば吐き気になる。この場所にさっき飲んだスポーツ飲料をぶちまけたい。要求に負けそうになる。だが、ここまで待って帰るのもしゃくだ。さっさと、先生に診てもらい帰るんだ。と心の中で念じていると、
「わしの番かの」
とおじいさんが呼ばれて別室に消えていく。
ちょっと待て。さすがに温厚な私だって、コレばっかりは納得が出来ない。いい加減にしろ。怒りは頭痛も熱もすっ飛ばし、長椅子から立ち上がらせる原動力になる。カウンターのおばさんに向かって
「あのー、私の方が先に……」
「あ、予約だから」
「はっぁ?」
「あの人、予約なの。だからあんたの番は次ね」
「はへっ?」
「診察の前に糖尿病の検査するから」
「いりませ……」
「うちの決まりなの。あんた、糖尿病だったら困るじゃない。自分の体よ。ちゃんと病院にきたら調べないと」
言っている意味が理解できない。38度の熱があるのに診察の前に糖尿病の検査をする? その必要性は何処にある?
「老人の診療の2割負担なんか止めればいいんですよ。そういう意味では……は頑張ってくれていますよ」
「先生のおっしゃるとおり。もっと、サラリーマンから取ればいいんですよ。健康保険料を2倍にしたって、馬鹿なサラリーマンじゃ文句もいいやしませんよ」
「駄目ですよ。そんなに上げたら。2割り増しくらいに押さえて、生かさず殺さずで払わせないと」
「さすが先生。お医者様はわしら凡人とは違って頭が切れますのう」
「消費税増税なんてもってのほかです。弱者のことを考えていません。現役世代の健保と介護料で負担させるべきです」
「先生のおっしゃるとおり。現役に払わすべきです。わしらのおかげであいつらは飯が食えてるんですからの」
話は終わりそうに無かった。永遠に続いていくように思われた。このままこの場所は、地球上のあらゆる場所から隔離され、浦島太郎のようなまだるっこしい時間が流れていくように感じられた。
甲高いおじいさんの声が響き渡ると、気持ち悪さを耐え切れなくなった私は、耐えようとする気力すら失って、その場にスポーツ飲料をぶちまけた。
了
*:これは、掌編小説です。100%フィクションで現実世界とは全くの関連性がないことを明言しておきます。