現在社畜の掌編とエッセイ

思いつくままに頭の中身を偏らない視点を意識しながら掌編やエッセイとして出力します。

風立ちぬをエディプスコンプレックスから読み取る個人的試み

 エディプスコンプレックス - Wikipedia

  

エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。

 と書かれているが、ここでは心理学用語としてのエディプスコンプレックスではなく、一般的な男性が持つ父親への対抗心を中心に分析を試みてみる。

 

 男は、父親に憧れを抱くと共に、超えるべき存在として認識することが多い。尊敬していながら軽蔑する。合理的な説明で片付けることができない。複雑な感情を持ちやすい。表面上に現れることが少ない厄介な心理状態の一つである。

 

 この複雑な感情は、男が生来持っていた性質の一つであると同時に、母親から植え付けられるものである。母親は、息子を父親へのアンチテーゼとして育てようとする。父親の持つ忌み嫌う性質を否定する大人になるべく教育を行うのだ。言うまでもなく、母親も父親のことを尊敬している部分もあるから、実質的に全否定されることは少ない。また、息子側も当然のように父親への憧憬を持っている。それらがあいまみえて闇鍋めいたごちゃごちゃとした意識が醸成されるのだ。

 

 宮崎駿監督は、反戦主義でありながら、世界の戦記を読み、武器にも造詣が深い(*1)。そのことは、育ってきた環境に影響されていると推測する。「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として生まれたことに、強く影響を受けていることは間違いない(*2)。父親が支援してきたであろう戦争や航空機への反感を刻み込みながら、真逆のベクトルを持った憧れを持ち続けているのだ。

 

 私は『風立ちぬ』は間違いなく、反戦の意図を持った映画だと感じられた。それなのに、一部で戦争を美化していると評されるのは何故であろうか。言いがかりをつけているのだろうか。

 

 無論、一部の論者は言いがかりにも感じられる。個人的には、どう見ても戦争を賛美しているようには考えられないから。とは言え、ある一定数以上の意見を全否定することはできない。だから推測する。監督が戦争を否定するのは、父親への否定部分が行っているが、その奥底の肯定している部分が見え隠れしているのだと。少なくとも主人公の二郎が許容したように、自分の目的を叶えるためには他人を犠牲にしても良いと考える心理が残されているかもしれない。雑多とした香りの中に、ほんの僅かしか発散されていない香りであるが、敏感な人間は目ざとく感じ取り指摘している可能性もある。

 

 人間は矛盾を抱えている生き物だから、監督の中に矛盾するものがあると仮定しても、おかしいと否定することに意味はない。反戦でありながらも、どこかの部分で戦争を認めていることがあっても不思議ではないのだ。

 

 『風立ちぬ』の主人公である二郎は反戦主義者だろうか。見落としているかもしれないが、あからさまな反戦主義者ではない。けれども、戦争を支持していないことは間違いないだろう。それでいながら、戦争に妥協して自分の欲求を優先させる人物なのだ。

 

 ピラミッドをある世界を否定したいとありながら、否定することができない。それは、まさに監督の状態なのかもしれない。ピラミッドの底辺の存在に同情しながらも、気がつけば頂点付近に立っているのだ。白々しく、二郎が否定しなかったのは、複雑な監督の心情に依存するのではなかろうか。

 

 もしかすると、否定したかった父親の存在に、知らず知らずに近づいていっている自分の姿に戸惑いを覚えているのかもしれない。他者が踏みにじられていようと、近くで銀行が倒産していようとも、無関心で仕事に邁進することを肯定しているのではなかろうか。

 

 二郎は父親の存在は描かれていない。

 それは、二郎の性格に影響を及ぼすからだ。父親とのかかわりあいを描き出せば、自由でいられることからかけ離れる。だから、家族との交流は必要最小限として描かれていたのではなかろうか。美しいものなどより、実利を重視した父親を生み出すことは、映像を穢すことになると考えたのではなかろうか。

 

 実際問題、父親など登場する必要性は無い。二郎の性格は既に決定付けられているのだ。監督は、自分の父親の存在を明示する必要は無い。何故ならば、監督はそこに存在するからだ。美しいものを求め続け、美しくないものには興味を抱かない。そんな二郎は、説明しなくても在るのだ。

 

 人が存在するのは説明不要だ。描写されていればいい。その人物の在りようがどうであるか。描き出されていれば理解できる。とは言え、私たちの世代、少なくとも私は二郎の考え方に共感することができない。菜穂子を可哀想と思うことができても、二郎の生き方を肯定することはできないのだ(同時に菜穂子の選択を支持することも難しい)。それは、私たちの世代は監督の子供世代だからだ(若干の誤差はあるが)。私たちは、監督のような生き方をしてきた父親を持ってきたのだ。つまり、監督の生き方に対して、否定する思想を埋め込まれている。憧れつつも、家庭を顧みない考えは葬り去れと母親によって育てられてきたのだ。

 

 若年層は、団塊世代と反対の思想が主流になってきている。年月により大戦の記憶が失われたこと、行き過ぎた学生運動の歴史化などを理由にするだけで片付けることができない。この流れは、団塊世代に対する私たちのエディプスコンプレックスであると言える。

 

 だから、と言って世代、全ての人が同じ考えを持つわけではない。特に、監督と同じような生き方を歩もうとしている人、クリエイターのように才能がある人間は、二郎に共感することができるだろう。そのことが、一部のクリエイターによる高評価を得ている理由の一つだ。同時に、高評価を下しているクリエイターの年齢が比較的高く感じられるのも同等の理由だ。

 

 二郎と言う人物は、自己本位の人間である。美しいものが好きである。ただ、それだけに興味しかなく、他者には関心が無い。菜穂子も美しいから好きになった。身も蓋もない人間だ。そんな才能の塊のような人間が、他人を踏み台として望むがままに欲しいものを手に入れて、あっという間に失っていく。と言う話だ。美化して言うならば、栄枯盛衰、世界の無常観を表現していると言えるだろうか。努力して生み出してきたものが、全て失われていく。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。
猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

 ふと、平家物語の冒頭を思い出す。世界は無惨にできている。どれほど才能を持った人間が、どれほど苦労して生み出したとしても、全て灰塵に還っていくのだ。審判の日に、私たちは回答を返すことはできるのか。

 

 二郎は答えない。黙したままだ。

 それは、まさに監督の心情を示している。

 好きなことをやってきた。欲しいものは手に入れてきた。だが、それらは戻ってこない。あっという間に過ぎ去って永遠に失われていく。まさに、監督が遺言(*3)と言う訳がわかる。それでいて、生きろって言うんだ。

 

 どう考えても共感できるはずも無い。

 それでいながら、監督が涙する理由も想像できるのだ。

 

 この映画はクリエイターの間では評判良く、一般人には受けが良くない。そんなブログを読んだ。納得できる部分がある。才能の塊のような人間、小学校の頃、学年に一人はいた天才、何をやっても上手くいってしまうというような人物、そんな人は二郎に自己投影を行うことができるだろう。ただ、自分の好きなことをやっているだけで道が次々に開けてしまう魔法使いのような存在。それが、当然の感覚として持てる人間、ならば、与えられながら奪われる不幸に胸が苦しくなるだろう。

 

 けれども、私のような凡人にとって、どうして二郎のことが好きになれるのだろうか。結核を癒すためにサナトリウムで療養する菜穂子に会いに行かない二郎。結核と知りながら喫煙をする二郎。そのような生き方をしていたのは我々の父親である団塊の世代だ。仕事だ。付き合いだ。と言って家庭を顧みず、時間に余裕ができればパチンコにでも出かけてしまう。子供なんて勝手に育っていくものと放言して、自己を優先させていた時代だ。とてもじゃないが、好意的にみることができない。クリエイターにお涙物と馬鹿にされる映画の方が、よっぽど満足感をもてると思う。

 

 対照的に、監督と同世代の多くは共感できたのだろう。映画館で、今までのジブリ映画では見られなかった年配の方が散見されたのは、偶然ではないはずだ。ゼロ戦ってキーワードに惹かれていたわけでもない。宮崎監督の純愛に自らの人生を投影したくなったのだ。私が映画館を出る時に偶然見かけた年配の夫婦の男性が顔を紅く激昂させていたのは、怒っていたわけではなく、感動していたのだろう。泣くことを我慢していたから、あのような強張った表情になっていたのだろう。

 

 その横にいた年配の女性はどのように感じただろうか。今時、菜穂子のような女性はいるはずが無い。当時だって、激レアな存在だったはずだ。黙って俺について来いと言ってついてくるような女性はそうそういたとは思えない。だが、今とは想像ができないほど忍耐強かったことは間違いない。もしかしたら、忍耐ではなく諦めだったのかもしれない。給料を持ってきてくれるのならば、他のことは知らないとばかりに無関心を装っていたのかもしれない。昔の意識を持っている世代では、まだありえる存在として認められるかもしれない。しかし、私には、そんな女性にリアリティーを感じられない。映画のキャラクターが現実に存在する必要性は無いが、菜穂子と言う存在が嘘臭くて仕方が無いのだ。

 

 このような感覚は、宮崎吾郎監督であれば理解できるのではないかと思う。氏は、家庭を放置して仕事をしていた父親のような人間にならないようにと母親に懇願されたそうだ(*4)。そこまであからさまではなくても、私たちの世代(吾郎監督よりかなり下だが)は、仕事だけを重視する生き方に肯定的ではない。逆に、仕事を熱心にすればするほど社畜と罵られるような時代なのだ(それは、それでどうかと思うが)。旧世代の価値観と対立した価値観を有しているのが今の時代だ。

 

 だから、『風立ちぬ』を純愛と言われても困る。混乱するのだ。確かに、純粋な愛であることは間違いない。二郎の愛は、ただ美しいものを求め続ける。邪念や見返りや計算など全く無い。それが美しいから好きだ。と言うディジタル的な二元論で記述できそうな愛は、確かに純粋である。けれども、それは純愛なのだろうか。見返りを求めてもいないが、相手のことも考えてもいない。執着心が無いというより、人形を愛でるのに似ている。二郎が愛するのは菜穂子である必要はない。美しければ誰でもいいのだ。そう言わんばかりである。

 

 それと比較すれば菜穂子はまだ理解できる。彼女の愛を純愛と呼ぶのも納得はできる。しかし、彼女の存在はあまりにも理想的すぎる。二郎の我侭を全て許容しているのだ。つまり、それは、アガペー - Wikipedia とも呼ばれる愛で、男女間で交わされるものではない。だから、求められているのは母親の存在のように思える。父親から奪い取ろうとしているのだ。自分の道を邪魔しない。それでいて、認めてくれている母親を求めているのだ。だからこそ、彼女は二郎より先に退場する。しかも、邪魔にならないように消えていくのだ。

 

 宮崎監督が、描きたいものを描いてみせた。たとえそうであっても、いや、もしそうならば、私たちの世代は、この映画が素晴らしいと思うことがあっても、好きになるのは難しい。『風立ちぬ』で監督が、自分の父親への批判として描き出した思想は、カウンターとなって私たち子供世代の拒絶するものとなっている。それが美しく描かれれば描かれるほど、好きになれないような気がするのだ。

 

 

---------------------------------------------

 

*1: 宮崎駿「時代が僕に追いついた」 「風立ちぬ」公開 :日本経済新聞

*2: 宮崎駿 - Wikipedia

*3:宮崎駿監督『風立ちぬ』は“遺言”か…周囲の“無理解”に嫌気? (産経新聞) - Yahoo!ニュース

*4:ひたすら映画を観まくる日記アルティメット・エディション : 宮崎駿監督最新作『風立ちぬ』を観ました