現在社畜の掌編とエッセイ

思いつくままに頭の中身を偏らない視点を意識しながら掌編やエッセイとして出力します。

きゅんきゅんしたちゅーずでぃ

 

 今日は凄い日だった。

 

 あの、スーパーチューズデイに負けないほど私の人生に影響を与える一日だった。

 

 そう、きゅんきゅんしてしまったのだ。

 

 いい歳して、きゅんきゅん。だなんて恥ずかしい奴。と思われる方もいるかもしれない。その意見ももっともである。きゅんきゅん。なんて小学生、いや、中学生くらいまで出終わりにしたいところだ。でも、どうしようもないじゃないか。きゅんきゅんしてしまうものは。誰にだって止めることはできない。唯一、止めることのできる権利を持っているのは、目の前の彼女だけだ。

 

 いつの間にか、日が落ちるのが早くなった。秋はつるべ落とし。そんなことを思い出させる夕暮れの時間、私は座っていた。椅子の上で楽な姿勢をとっている。覗き込むように彼女が私を見つめている。何も語らない。無口のままで彼女の職務を果たしている。

 

 二人の間には殺気にも似た緊張感がある。溜息すらつくことはできない。私は動作することを放棄して、口をポカンと開いたまま、彼女の一挙一動に神経を尖らす。

 

そうだ。私は神経を尖らしている。全身を張り詰める緊張が、私の体を硬直させている。しかし、どうすることもできないのだ。複雑な、感情が、あの甘く蕩けるアイスクリームを憎む気持ちが、余計な言葉を発するのを禁止している。自ら動くことは許されない。彼女を信じる気持ちが大事だと。

 

彼女が動くと同時に痛みが走った。今までに経験したことの無い痛みだ。頭蓋骨にきゅんきゅんと言う音が響き渡り残響しているかのようだ。苦しみのあまり反射的に拳を握る。そんなことはあり得ない。この年齢になってきゅんきゅんなど恥ずかしい。幻聴を聞いているに違いない。そう思い込もうとするが、現実には逆らうことができない。

 

目を見開き彼女に私は訴えかける。すると、彼女は私の視線に気づく。

 

「痛かったら手を挙げてください!」

 

言われて手を挙げるが、「我慢してください」で終わってしまう。なんてこった。あの時、チョコレートを食べて歯を磨かなかったのが悪かったに違いない。こんな歳になって虫歯になるなんて。後悔しながら、女性歯医者の手に運命を委ねた。

 

 了

 

今週のお題「2020年の私」 ~ ゴジラと共に

今週のお題「2020年の私」

 

 ぶっちゃけ、2020年なんて想像できないわけですよ。ほら、AKIRAの世界なんですよ(*1)。首都高をバイクで暴走しながらレーザーが降ってきて超能力戦争が起こってしまうような、そんな世界なんてイメージが沸くわけ無いじゃありませんか。

 

 大体、生きているか判らないわけですよ。だって、7年後ですよ。生まれた蝉だって地上に出てきてジキジキ鳴かなきゃいけないくらいの年月ですよ。もう、考えるだけ無駄ですって。

 

 そもそも、7年後のことを考える前に、7年前のことを思い出してみてください。鮮明に思い出すことができますか? あの、めちゃくちゃ暑かった夏の日のことを思い出すことができますか? 私なんて、ある事件のことしか思い出せませんよ。ええ、あの事件です。書けませんけどね。あまりにも恥ずかしくて。

 

 そんな状態ですから、未来を予測するのは無理。絶対に無理。なので、予測するのはやめましょう。そうしましょう。

 

 代わりと言っちゃなんですが、なりたいものでも書きましょう。

 

 ずばり、2020年になりたいものと言えば、『ゴジラ』。これしかありません。皆さんは、子供の頃になりたいものを問われた時、なんと答えていました? 野球選手? サッカー選手? それともプロゴルファー猿? いやいや、済みません。ちょっと年代がばれてしまいそうな発言を書いてしまいました。ということは、どうでも良くて、悪者とか怪獣とかに憧れませんでした? 虫キングとか必死になって遊んで、ヘラクレス大カブトムシになってしまった夢とか見ませんでした?

 

 私は、見ましたよ。ゴジラになる夢。モスラじゃありません。キングギドラバルタン星人も勘弁してください。仮面ライダーってのも駄目です。やはり、あらゆる意味でゴジラなんです。ええ、勿論、引退された松井選手のことでもありません。

 

 あの、東京を破壊してしまうゴジラです。

 東京タワーを破壊するのは男のロマンです。

 尻尾で一撃、ヘニョって感じで途中からぽっきり折れるのです。

 

 今時は、スカイツリーの破壊も視野に入れねばなりません。あのでっかい建物も尻尾でベキって感じで折ってしまうのです。ああ、これこそ男のロマンと言えるでしょう。風立ちぬとでも言うべきでしょう。

 

 ただ、ゴジラが悪者と言っても、死者は出してはいけません。ええ、私はその辺にまでも注意しますよ。器物損壊は許されますが、死傷者を出すことは絶対に駄目! ここは重要なポイントです。

 

 だから、東京湾から上陸する際も細心の注意を払います。大空に向かって雄叫びを上げながらゆっくりと東京タワーに向かって歩き出します。そうです。走っては駄目です。地表を歩いている人を踏んづけてしまうかもしれませんし、車を蹴飛ばしてしまうかもしれません。もし、パトカーだったら大変なことになります。逮捕されてしまいます。

 

 ですから、目標を明確にする必要があります。まずは、東京タワーを狙っているんだ。そうわからせる必要があります。マスコミの皆さんも、ちゃんとゴジラは東京タワーを狙っていると報道してください。そして、避難誘導も間違いなく実施してください。怪我人も望んでいません。望みは破壊だけです。思う存分破壊したらスカイツリーの番です。間違ってもお台場に向かっています。なんて勘違いの報道は行わないでください。あの、丸っこいのを転がしてボウリングをしてみたい。と思うことは無いとはいいません。けど、ゴジラになったら、やりません。そもそも、お台場を襲撃するくらいならば、東京タワーの前に襲い掛かりますって。常識的に考えて。

 

 さて、東京タワーとスカイツリーを破壊した後はどうしましょう。などと悩む必要はありません。そうです。大東京帝国や鉄男と最後の戦いが待っています。これに勝利することで東西南北中央不敗のゴジラとなれるのです。

 

 もう、考えるだけでわくわくしてきます。眠れなくなってしまいます。明日が会社であることを忘れそうになる。ね、ゴジラにならないといけませんよね――えっ、なに? ゴジラにはなれないって? 本当? あきらめろって……? 

 

 

*1:『AKIRA』はなぜ2020年東京オリンピックを予告できたのか(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース(1/3)

風立ちぬをエディプスコンプレックスから読み取る個人的試み

 エディプスコンプレックス - Wikipedia

  

エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。

 と書かれているが、ここでは心理学用語としてのエディプスコンプレックスではなく、一般的な男性が持つ父親への対抗心を中心に分析を試みてみる。

 

 男は、父親に憧れを抱くと共に、超えるべき存在として認識することが多い。尊敬していながら軽蔑する。合理的な説明で片付けることができない。複雑な感情を持ちやすい。表面上に現れることが少ない厄介な心理状態の一つである。

 

 この複雑な感情は、男が生来持っていた性質の一つであると同時に、母親から植え付けられるものである。母親は、息子を父親へのアンチテーゼとして育てようとする。父親の持つ忌み嫌う性質を否定する大人になるべく教育を行うのだ。言うまでもなく、母親も父親のことを尊敬している部分もあるから、実質的に全否定されることは少ない。また、息子側も当然のように父親への憧憬を持っている。それらがあいまみえて闇鍋めいたごちゃごちゃとした意識が醸成されるのだ。

 

 宮崎駿監督は、反戦主義でありながら、世界の戦記を読み、武器にも造詣が深い(*1)。そのことは、育ってきた環境に影響されていると推測する。「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として生まれたことに、強く影響を受けていることは間違いない(*2)。父親が支援してきたであろう戦争や航空機への反感を刻み込みながら、真逆のベクトルを持った憧れを持ち続けているのだ。

 

 私は『風立ちぬ』は間違いなく、反戦の意図を持った映画だと感じられた。それなのに、一部で戦争を美化していると評されるのは何故であろうか。言いがかりをつけているのだろうか。

 

 無論、一部の論者は言いがかりにも感じられる。個人的には、どう見ても戦争を賛美しているようには考えられないから。とは言え、ある一定数以上の意見を全否定することはできない。だから推測する。監督が戦争を否定するのは、父親への否定部分が行っているが、その奥底の肯定している部分が見え隠れしているのだと。少なくとも主人公の二郎が許容したように、自分の目的を叶えるためには他人を犠牲にしても良いと考える心理が残されているかもしれない。雑多とした香りの中に、ほんの僅かしか発散されていない香りであるが、敏感な人間は目ざとく感じ取り指摘している可能性もある。

 

 人間は矛盾を抱えている生き物だから、監督の中に矛盾するものがあると仮定しても、おかしいと否定することに意味はない。反戦でありながらも、どこかの部分で戦争を認めていることがあっても不思議ではないのだ。

 

 『風立ちぬ』の主人公である二郎は反戦主義者だろうか。見落としているかもしれないが、あからさまな反戦主義者ではない。けれども、戦争を支持していないことは間違いないだろう。それでいながら、戦争に妥協して自分の欲求を優先させる人物なのだ。

 

 ピラミッドをある世界を否定したいとありながら、否定することができない。それは、まさに監督の状態なのかもしれない。ピラミッドの底辺の存在に同情しながらも、気がつけば頂点付近に立っているのだ。白々しく、二郎が否定しなかったのは、複雑な監督の心情に依存するのではなかろうか。

 

 もしかすると、否定したかった父親の存在に、知らず知らずに近づいていっている自分の姿に戸惑いを覚えているのかもしれない。他者が踏みにじられていようと、近くで銀行が倒産していようとも、無関心で仕事に邁進することを肯定しているのではなかろうか。

 

 二郎は父親の存在は描かれていない。

 それは、二郎の性格に影響を及ぼすからだ。父親とのかかわりあいを描き出せば、自由でいられることからかけ離れる。だから、家族との交流は必要最小限として描かれていたのではなかろうか。美しいものなどより、実利を重視した父親を生み出すことは、映像を穢すことになると考えたのではなかろうか。

 

 実際問題、父親など登場する必要性は無い。二郎の性格は既に決定付けられているのだ。監督は、自分の父親の存在を明示する必要は無い。何故ならば、監督はそこに存在するからだ。美しいものを求め続け、美しくないものには興味を抱かない。そんな二郎は、説明しなくても在るのだ。

 

 人が存在するのは説明不要だ。描写されていればいい。その人物の在りようがどうであるか。描き出されていれば理解できる。とは言え、私たちの世代、少なくとも私は二郎の考え方に共感することができない。菜穂子を可哀想と思うことができても、二郎の生き方を肯定することはできないのだ(同時に菜穂子の選択を支持することも難しい)。それは、私たちの世代は監督の子供世代だからだ(若干の誤差はあるが)。私たちは、監督のような生き方をしてきた父親を持ってきたのだ。つまり、監督の生き方に対して、否定する思想を埋め込まれている。憧れつつも、家庭を顧みない考えは葬り去れと母親によって育てられてきたのだ。

 

 若年層は、団塊世代と反対の思想が主流になってきている。年月により大戦の記憶が失われたこと、行き過ぎた学生運動の歴史化などを理由にするだけで片付けることができない。この流れは、団塊世代に対する私たちのエディプスコンプレックスであると言える。

 

 だから、と言って世代、全ての人が同じ考えを持つわけではない。特に、監督と同じような生き方を歩もうとしている人、クリエイターのように才能がある人間は、二郎に共感することができるだろう。そのことが、一部のクリエイターによる高評価を得ている理由の一つだ。同時に、高評価を下しているクリエイターの年齢が比較的高く感じられるのも同等の理由だ。

 

 二郎と言う人物は、自己本位の人間である。美しいものが好きである。ただ、それだけに興味しかなく、他者には関心が無い。菜穂子も美しいから好きになった。身も蓋もない人間だ。そんな才能の塊のような人間が、他人を踏み台として望むがままに欲しいものを手に入れて、あっという間に失っていく。と言う話だ。美化して言うならば、栄枯盛衰、世界の無常観を表現していると言えるだろうか。努力して生み出してきたものが、全て失われていく。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。
猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

 ふと、平家物語の冒頭を思い出す。世界は無惨にできている。どれほど才能を持った人間が、どれほど苦労して生み出したとしても、全て灰塵に還っていくのだ。審判の日に、私たちは回答を返すことはできるのか。

 

 二郎は答えない。黙したままだ。

 それは、まさに監督の心情を示している。

 好きなことをやってきた。欲しいものは手に入れてきた。だが、それらは戻ってこない。あっという間に過ぎ去って永遠に失われていく。まさに、監督が遺言(*3)と言う訳がわかる。それでいて、生きろって言うんだ。

 

 どう考えても共感できるはずも無い。

 それでいながら、監督が涙する理由も想像できるのだ。

 

 この映画はクリエイターの間では評判良く、一般人には受けが良くない。そんなブログを読んだ。納得できる部分がある。才能の塊のような人間、小学校の頃、学年に一人はいた天才、何をやっても上手くいってしまうというような人物、そんな人は二郎に自己投影を行うことができるだろう。ただ、自分の好きなことをやっているだけで道が次々に開けてしまう魔法使いのような存在。それが、当然の感覚として持てる人間、ならば、与えられながら奪われる不幸に胸が苦しくなるだろう。

 

 けれども、私のような凡人にとって、どうして二郎のことが好きになれるのだろうか。結核を癒すためにサナトリウムで療養する菜穂子に会いに行かない二郎。結核と知りながら喫煙をする二郎。そのような生き方をしていたのは我々の父親である団塊の世代だ。仕事だ。付き合いだ。と言って家庭を顧みず、時間に余裕ができればパチンコにでも出かけてしまう。子供なんて勝手に育っていくものと放言して、自己を優先させていた時代だ。とてもじゃないが、好意的にみることができない。クリエイターにお涙物と馬鹿にされる映画の方が、よっぽど満足感をもてると思う。

 

 対照的に、監督と同世代の多くは共感できたのだろう。映画館で、今までのジブリ映画では見られなかった年配の方が散見されたのは、偶然ではないはずだ。ゼロ戦ってキーワードに惹かれていたわけでもない。宮崎監督の純愛に自らの人生を投影したくなったのだ。私が映画館を出る時に偶然見かけた年配の夫婦の男性が顔を紅く激昂させていたのは、怒っていたわけではなく、感動していたのだろう。泣くことを我慢していたから、あのような強張った表情になっていたのだろう。

 

 その横にいた年配の女性はどのように感じただろうか。今時、菜穂子のような女性はいるはずが無い。当時だって、激レアな存在だったはずだ。黙って俺について来いと言ってついてくるような女性はそうそういたとは思えない。だが、今とは想像ができないほど忍耐強かったことは間違いない。もしかしたら、忍耐ではなく諦めだったのかもしれない。給料を持ってきてくれるのならば、他のことは知らないとばかりに無関心を装っていたのかもしれない。昔の意識を持っている世代では、まだありえる存在として認められるかもしれない。しかし、私には、そんな女性にリアリティーを感じられない。映画のキャラクターが現実に存在する必要性は無いが、菜穂子と言う存在が嘘臭くて仕方が無いのだ。

 

 このような感覚は、宮崎吾郎監督であれば理解できるのではないかと思う。氏は、家庭を放置して仕事をしていた父親のような人間にならないようにと母親に懇願されたそうだ(*4)。そこまであからさまではなくても、私たちの世代(吾郎監督よりかなり下だが)は、仕事だけを重視する生き方に肯定的ではない。逆に、仕事を熱心にすればするほど社畜と罵られるような時代なのだ(それは、それでどうかと思うが)。旧世代の価値観と対立した価値観を有しているのが今の時代だ。

 

 だから、『風立ちぬ』を純愛と言われても困る。混乱するのだ。確かに、純粋な愛であることは間違いない。二郎の愛は、ただ美しいものを求め続ける。邪念や見返りや計算など全く無い。それが美しいから好きだ。と言うディジタル的な二元論で記述できそうな愛は、確かに純粋である。けれども、それは純愛なのだろうか。見返りを求めてもいないが、相手のことも考えてもいない。執着心が無いというより、人形を愛でるのに似ている。二郎が愛するのは菜穂子である必要はない。美しければ誰でもいいのだ。そう言わんばかりである。

 

 それと比較すれば菜穂子はまだ理解できる。彼女の愛を純愛と呼ぶのも納得はできる。しかし、彼女の存在はあまりにも理想的すぎる。二郎の我侭を全て許容しているのだ。つまり、それは、アガペー - Wikipedia とも呼ばれる愛で、男女間で交わされるものではない。だから、求められているのは母親の存在のように思える。父親から奪い取ろうとしているのだ。自分の道を邪魔しない。それでいて、認めてくれている母親を求めているのだ。だからこそ、彼女は二郎より先に退場する。しかも、邪魔にならないように消えていくのだ。

 

 宮崎監督が、描きたいものを描いてみせた。たとえそうであっても、いや、もしそうならば、私たちの世代は、この映画が素晴らしいと思うことがあっても、好きになるのは難しい。『風立ちぬ』で監督が、自分の父親への批判として描き出した思想は、カウンターとなって私たち子供世代の拒絶するものとなっている。それが美しく描かれれば描かれるほど、好きになれないような気がするのだ。

 

 

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*1: 宮崎駿「時代が僕に追いついた」 「風立ちぬ」公開 :日本経済新聞

*2: 宮崎駿 - Wikipedia

*3:宮崎駿監督『風立ちぬ』は“遺言”か…周囲の“無理解”に嫌気? (産経新聞) - Yahoo!ニュース

*4:ひたすら映画を観まくる日記アルティメット・エディション : 宮崎駿監督最新作『風立ちぬ』を観ました

 

掌編 『夏の終わりと蝉の訪れ』

 いつの間にか夏が終わっていた。

 チャイムが鳴れば解りやすいが、移ろう季節は曖昧に遷移する。もしかしたら、季節って奴は、秋だと気づいて愕然とする私をこっそり隠れて嗤っていそう。引っかかりましたね。もう、秋なんですよ。ってクスクス。

 

 時々、そんなことを考えてしまう。

 あれだけ暑くてむかついていたのに、過ぎ去ってしまったと知って愕然とする。高くなった空を見上げて、どうして夏を嫌いだったか思い出すことができない。ちぎれた綿のような細い雲の河を見て、もっと暑い夏を満喫したかった。とぼやかせるのだ。

 

 でも、嘆いていても何も変わらない。寒い冬へと突き進んでいくこの季節の中でできることは、残り香を探すくらい。ミンミンゼミやツクツクボウシが鳴いているのを確認しながら、まだ、今年の夏は終わっていないんだ。そう思い込もうとする。

 

 海に行って潮の匂いを確認する。思い出の中に残っている夏の時間が少しずつ蘇ってくる。軽い気持ちではしゃぎ続けた子供の頃に還っていく。時間は無限大に存在して、老化などは絶対に起こらないと確信していたあの頃に。

 

 革靴で砂浜を歩く。乾いた砂が靴に入り、チクチクした痛みで心がささくれ立つ。叫びだしたい衝動に駆られる。

 

 サーファーが一人、海に入っていく。初心者だろうか。沖まで行かず、波打ち際で楽しんでいる。立ち上がれず、立ち上がったと思ったらすぐに倒れる。それでもめげずにボードに乗り、少しでもましな波が来るのを待つ。

 

 悪くは無い。

 

 私は走り出す。革靴に砂が入り込むのも気にしない。頭の中を空っぽにして、全力で疾走する。海草に足を取られ無様に転ぶ。だが、すぐに立ち上がる。砂だらけになったことすら気にせずに駆け出す。いつまでも。いつまでも。

 

 了

路面電車

 空には蜘蛛の巣が張り巡らされていた。飛んでいこうとする私を閉じ込めるように隙間が無い。

 

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 もし、私が蜘蛛ならば電線の上を歩けるだろうか。

 どの線が通り道たる縦糸なのか、見分けることができるだろうか。

 

 両手を空に伸ばしてみる。

 ジャンプして掴もうとする。

 届かないと知っていながら、所詮、羽を持たない蟻と気づきながら、無駄な努力を繰り返す。

 

 でも、それでも構わないと思う。

 飛ぼうと願わなければ翼は生えない。

 諦めて立ち止まっているだけならば、絶対に前には進まない。

 数秒だっていいんだ。

 一歩だっていいんだ。

 

 私は歩み、跳ぶ。

 

 もし、疲れたときは、路面を進む電車に乗ろう。隣にカオナシが乗っていても恐れる必要は無い。襲ってくることはありえないのだ。不安になれば、深呼吸をすれさ。怖くは無いから。窓の外を眺めていれば、疲れた心も安らぐだろうし。

 

 微かに、匂った。

 海の匂いだ。磯の、塩分をたっぷりと含んだ親潮の香りだ。街が霧に包まれようとし、故郷の景色を伝えてくるよう。鳴らされたクラクションの音を聞かない振りして両手を伸ばし、私は何度も飛び跳ね続けた。

 

 了

「止まない雨」 掌編

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 セブンスターの木はその場所にあった。
 子供の頃に見た姿と、全く変化が無いように感じられた。

 雨がシトシトと降ってくる。真夏だというのに肌寒い。気温が四十度を超えたニュースで大騒ぎしている国の話とは思えない。現実を疑いながら水滴で重くなった前髪 をかきあげる。垂れてくる水滴を振り払うため頭を軽くシェイクし、地面に視線を落とす。すると、道路を濡らしている雨は大地を黒く塗りつぶそうとしてい る。

 溶けてしまえ。

 呟きながら空模様を呪う。
 この雨は永遠に止むことなどない。
 降り続けて世界を沈めてしまうのだ。
 水の中に閉じ込めて窒息させてしまうに違いない。
 救われること無く泡となって消えてしまう。
 きっとそうだ。

 溶けてしまえ。

 雨が口の中に染み込んでくる。不思議な苦味がある。吐き出したくなる臭みがある。しかし、何もできない。全ての感覚を奪われ動くことができない。石化したかのように立ち尽くすことしかできない。

 それでもいいと思った。そのためにここに来たのだから――。

「もうすぐ止むな」

 シャッター音と同時に背後から男の声が聞こえた。呪いを解かれたのだろうか。私が肉体を取り戻し振り返ると、一眼レフを構えた男が独り言を口にする。

「虹が出たか」

 男の視線の先を追いかけて再び空を見上げた。そこには、両手を伸ばしても捕まえ切れそうに無い、とても大きく淡い色の架け橋が描かれている。絵の具が雨で溶かされたような抽象的な存在は、闇を渡る道しるべになっている。

 了

罰を重くすればバカッターの炎上がなくなるのか?

 結論を書こう。

 罪を重くしてもバカッターの炎上は無くならない。しかも、Twitter(やネットによる情報発信)を止めない限り、本人が再度炎上事件を起こす可能性すら無くならない。

 

 

 炎上は他人事ではない。

 

 いつ、自分、家族、職場……ステークホルダーが炎上するかわからない。そのような時代に入ったことに注意しなければならない。

 あなたは、いやいや、twitterやらないから。炎上なんてありえないから。そう思うかもしれない。だが、その認識は甘い。たとえ、ニートの引き篭もりでさえ炎上する可能性はある。

 

 それは、ネットに接続されているからである。と言うと、ちょっと語弊があるか。

  ネット上に情報を発信しているならば、炎上する可能性は常に付随していると言い換えよう(ROMっているだけならば安全だ)。

 

 何故か。簡単に説明しよう。と、その前に、冷蔵庫に入った写真をTwitterに投稿したアルバイトの一件を思い出してみる。彼は、その一件で間違いなく人生を狂わせた。そんな人生の一大事を起こすことになった彼は、どのような意識でツイートしたのだろうか。

 

  はぁ? 馬鹿の考えなどわかるわけないだろ。口の悪い人ならそう答えるかもしれない。実際問題、他人の考えなどわかるはずもない。でも、推測はできる。想像 の範囲なので、本人の意図とは異なっているかもしれないが、バカッターをした理由をイメージするに……、きっと、単に面白いと思ったからだ。暑いから冷蔵庫に入ってみた。 冗談レベルの行動、お笑い芸人がやりそうなネタだ。それをTwitterに投稿すれば人気者間違いない。と、そこまで考えたのかわからないが、少なくともその後、ど のような運命が待ち受けているかなど想像できていなかった。

 

 確信を持って言えることだが、未来の自分の運命を知っていたのならば、彼は冷蔵庫に入ることはなかっただろう。少なくとも、ツイートすることはなかったはずだ。あーあ、Mixiで友達限定公開だったら良かったのにね。思わず、そう呟きたくなるのだ。

 

 さて、そう考えてみると、彼は、故意にバカッターをしたわけではない。つまり、この一件は、ミスである。若しくは、事故だ。

 

 ところで、車での交通事故の加害者にならないためにはどうすれば良いだろうか。

 訊かれた経験がある人ならば即答するだろう。答えは簡単で、運転をしなければいいのである。

 

  車の運転を行わなければ、絶対に事故は起こさない(運転者として)。だが、車を運転するならば、必ず事故を起こす可能性を秘めている。当然、人によって確率差は出てくる。事故を繰り返し発生させる人間と、死ぬまで一度も問題を起こさない無事故無違反ドライバーの違いだ。大きな差が存在することは否定できな い。

 

 しかし、運転する以上、事故を起こす可能性はゼロじゃない。無限の時間が存在するならば、いつかは必ず事故を起こすはずだ。

 

 ある意味、宝くじと似ている。宝くじを購入している以上は当たる可能性がある。もし、購入していなければ、当たる可能性は無い。それと同じことだ。

 

 ネットに情報発信をすることも同じで、自分が炎上するようなことはあり得ない。そう自信を持って言えるのはネットに情報を発信していない人間だけである。Twitterを行っていなければ、書き込みをせずROMだけであるならば、炎上することは無い。逆に、書き込みをしていれば、いつどんなことから、炎上する事態に陥るか全く予想することはできないのだ。

 

 先日、2チャンネルの●の情報が流出した。その影響で、問題ある内容を書き込んでいた人たちの一部の身元がばれてしまった。その様を自業自得と見るだろうか。正義を振りかざして攻撃して欲求不満を解消する人もいるかもしれない。攻撃していたはずの立場が、一夜にしてひっくり返ってしまったのだ。2チャンネルもとうとう実名サイトになってしまったか。などと冗談を言う余裕があるのは傍観者だけで、不適切な発言を投稿していたのがばれてしまった当事者たちは、戦々恐々としているのではないか。これは、よもや起こるはずがなかったことが起こった。と言う実例のひとつだ。

 

 閑話休題、話を強引に戻そう。

 バカッターによる一部の炎上、窃盗や恐喝など明確な犯罪行為ではない、軽犯罪法にすら該当しないような民事で解決できるような事件、――例えば、先日の冷蔵庫事件が該当するが――、そのような事件はいつでも発生する可能性がある。何が炎上する原因になるかなど、ある意味、予想することすら困難だ。バカッターを攻撃しているはずの人物だって、該当人物が自殺したりすれば、ブーメランとなって責任を追及される立場に変わるかもしれないのだ。

 

 さて、炎上する予想は不可能であるが、防止する手段はいくつか存在するはずだ。それを考えてみよう。

 難しく考える必要は無い。長々と書いてきたこれらの話には、実は一貫性がある。もし、あなたが、失敗学や安全工学を学んだことがあれば、ピーンとくるものがあったのではないか?

 

 そう。これは、ヒューマンエラー - Wikipediaに該当する。

 

ヒューマンエラー (: human error) とは、人為的過誤や失敗 (ミス) のこと。 JIS Z8115:2000[1]では、「意図しない結果を生じる人間の行為」と規定する。

 

 犯罪、若しくは問題となるであろう行為と認識せず、炎上を起こしているバカッターは、まさにヒューマンエラーが原因であると言える。意図して行っていないだけ、撲滅することが難しい。本人にとって、明確な悪意を持って行っている犯罪行為より無くすのが難しいのだ。本人が悪いと考えて行っていないのであるから、結果に対して厳罰を与えたところで、無くなるはずがない。スピード制限を守ることは意志の力で可能だが、強い意思があったとしても、無事故を守り続けることは絶対に可能であると言えないのだ。運転する以上、事故の可能性は必ず付きまとい、ヒューマンエラーに起因する事故は、厳罰を下したからと言ってなくせるものではない。何故ならば、人間は失敗をする生き物だからだ。

 

 待て待て、そんなことはない。見せしめ効果は絶対にある。ここまで書いてもそう信じている人もいるだろう。そこで、別の例を挙げてみよう。

 

 振り込め詐欺――最近では、母さん助けて詐欺と呼ぶのかもしれない――詐欺の手口はヒューマンエラーを利用している。電話先の人間を重要な人物であると錯覚させているのだ。

 

 騙されれば、被害額も笑って済ませないほどになる。望んで騙される人などいるはずが無い。それなのに、どうして騙されるのか。ネットで見かけた幾人かの被害者(若しくは近親者)は、自分だけは騙されるはずがないと思った。そう発言している。そして、私は用心深く、とても注意したいたのだけれども、相手はこんな巧妙な手口だったから騙されてしまったのだと。

 

 炎上と似ていると言っては叱責されるだろうか。言うまでも無く、騙されたのと、自分で炎上させたのでは本質的には違う。だが、ヒューマンエラーが介在しているという意味では同じなのだ。

 

 振り込め詐欺に騙されない対策は、ヒューマンエラーによる対策に通じるものがある。一つの事例、巧妙な手口を知ることは、騙されない対策の一つではあるが、参考程度にしかならない。騙されないための本質を考えず、目先の巧妙な手口を追っていても効力は弱い。型の違うインフルエンザウイルスに対して、ワクチンの効き目が弱くなるのと同じで、詐欺師の次々と編み出される凡人の想像できないような巧妙な新たな手口に対して対処できない。改造されたネットウイルスがワクチンソフトのパターンを潜り抜けるのと同じだ。対抗する一番の方法は、本質的な部分を押さえる事だ。振り込み詐欺で言うならば、絶対にお金を出さないことである。振り込まないし手渡さない。振る袖がなければ騙されようがない。

 

 転じて、バカッターの炎上を無くすことを考えてみよう。あなたがもし経営者ならば、冷蔵庫に入りません。という誓約書を書かせることは、少しのご利益しかないと知るべきだ。冷蔵庫に入らなくても炎上させる罠はいくつも転がっているのだ。バカッターなど、経営者が予想できないことで発生するものなのだ。

 

 だから、経営者が一番初めに指示するのは、スマートフォンを職場に持ち込ませないことだ。スマートフォン、カメラなど仕事に必要が無いものは、更衣室に保管させること。そして、ロッカーに鍵をかけること。これらを徹底させるべきなのだ。

 

 次に行うべきことは、職場で起こった出来事をネット上に公開させないことだ。余計なことを書かないこと。写真を公開しないこと。それほど、難しい指導ではないはずだ。

 

 と、書いていると、教育の重要性を軽視しているように思われるかもしれない。勿論、そんなことはない。何が問題になりそうか、どうすれば良い仕事ができるか。しっかりとした教育とコミュニケーションがなされていれば、回避されている問題も多いはずだ。

 

 ただ、ヒューマンエラーを無くすためには、まずハードウェアの対策が重要であり、次にソフトウェアの対策が必要となる。最後に、エラーが発生した場合の被害を最小限に抑えるリミッターが不可欠だ。と言うことを主張したいだけだ。

 

 罪を重くすることに意味はない。ネット上で無関係な人間がバカッターを叩くことは虐めに近い行為だ。割れ窓理論 - Wikipediaの考え方は賛同できるが、不注意で窓を割った人間を追い詰めることが正しいとは到底信じられない。割った窓を修復させればそれで十分なのだ。一人の人生を崩壊させても、社会に有益な行為とは言えないだろう。負のスパイラルに陥るだけなのだから。

 

 だから、もし、バカッターを見かけたとしても強く糾弾しないで欲しい。犯罪行為、特に重犯罪でないならば――冷蔵庫に入るくらいならば――問題行為を指摘する程度で留めて欲しい。そう考えるのだ。そして、その考えはそれほど間違っているとは思えないのだ。

 

 了