現在社畜の掌編とエッセイ

思いつくままに頭の中身を偏らない視点を意識しながら掌編やエッセイとして出力します。

別にバズらなくてもいい

αブロガーさん……。

 

って言葉を見て、ああ、そんな絶滅危惧種みたいな単語まだ残っていたんだ。なんて思ってみたり。

 

言葉はともかく、人気者になりたい。そんな願望は誰しもある。いや、誰しもではないかもしれないが、こんなブログを書いている人間にはある。多分ある。きっとある。いや、ホントはどうでも良い。

 

とにかく、ホイホイされてみたいと思わなくもない。その感情を真っ向から否定する気は全くないが、だからと言って、それが自分の中にある本心かと言うとはなはだ疑わしい。

 

自分自身、有名になりたいとか、バズりたいとか本気で思っているとはとても思えない。もし、思っていたならば、もっとまじめに更新したり写真を張り付けたりいろいろとしているような気がする。

 

そもそも、有名になりたければ噛り付くのが良い。

 

おしりかじり虫だ。

 

けれども、そんな存在にはなりたくない。そこまでして有名になったところで瞬間風速的なものだし、そこから生み出される何か何て何もない。

 

αブロガーから始めて一般にも知られるようになったような人までたどり着ける気はない。そもそも、そんな人は、ネットの世界に入らなくても一流の人間になっていただろう。遅かれ早かれはあったとしても。

 

そんなことを考えてみると、やっぱり、ゴミ屑だ自慰行為だとか思われたとしても自分の好き勝手に書いている方が楽なんだ。

 

バズったりすれば引きずられる。その引力の強さに自分自身が捻じ曲げられてしまう。それに耐えられる人間ならばいいのかもしれないが、とてもじゃないが我慢できない。そんなことを考えると、今のままがいいね。とのんびりと思ってしまうのだ。

 

そもそも、他人からの圧力食らうの大嫌いな人間だしさ。

アイス・バケツ・チャレンジが苛めにしか見えない理由

 もし、中学校で同級生に、牛乳の一気飲みをしろ。もしくは一万円をよこせ。と言われたらどうなるだろうか? 指名された人間は、自分以外の二人か三人を指名しなければいけない。などと言われたらどうなるだろうか?

 間違いなく問題にされるだろう。下手すれば停学させられるかもしれないし、最悪の場合警察沙汰になるかもしれない。それほどのインパクトがある行為だろう。

 だから、私はアイス・バケツ・チャレンジなるものにどうしても共感することができない。慈善行為だから構わないじゃないか。という問題ではない。慈善の押し売りより好ましくない慈善を強要するような行為であり、本質的には苛めと同様の構造がある。

 自発的に慈善行為を行うことは素晴らしいことだ。称賛するに値する。しかし、強要して慈善行為を行わせるのは嫌悪する。個人的に税金を取るような行為にしか見えない。税金は民主主義の下、恣意的な力は働いたとしても、基本的には平等に分配されるものだ。それに対し、このチャレンジは民主的ではない。

 別に、寄付は強要されていない。金を払いたくない人間は氷水をかぶれば良い。そう主張する人もいるかもしれない。だが、氷水をかぶったり、他の人を指名する義務を与えられる。この義務を拒否するならば、慈善行為を行わない人間というレッテルを貼り付けようとしている。どうして、このような素晴らしい行為に賛同しないのか。反社会的でケチな人間とみなすと言わんばかりの無言のプレッシャーをかけているのだ。

 

【アイス・バケツ・チャレンジ】氷水かぶりが大流行となった理由

 

 にも書かれている通り、【誰かが直接これをやってと頼んできた場合、嫌な人間だと思われずに断るのは難しいですね】なのだ。

 相手の望んでいないことを無理やり無言の圧力で行わせる。その構造は苛めでしかない。

 アイス・バケツ・チャレンジは素晴らしい。天才的な閃きだ。などと主張する人もいる。けれども、どう考えてみても素晴らしくもないし、天才的でもない。アメリカ人特有の自分たちが生み出したものは最高って主張は滑稽にしか見えない。

 個人的には馬鹿馬鹿しい行為にしか見えない。だが、批判することは容易ではない。アイス・バケツ・チャレンジを批判すると、批判した人が非難される構造にもなっているからだ。

 

 要するに苛める人間が、苛めを非難した人間を非難することができる不可思議な構造を作り出している。

 

 やり方に問題があろうとも困っている人を助けることができるならばいいじゃないか。そう言って問題の本質を隠そうとしているのだ。

 

 もし、鼠小僧が現代にいて、善良な人間から金を盗んで募金をしていたとしたらどうであろうか。一部の人は鼠小僧をもてはやすかもしれない。マスコミは褒めちぎるかもしれない。もし、そうだとしても、私は非難するに違いない。金に色がついていなかったとしても、不正な手段で得たもので善意を行うことを肯定的に受け止めることはできない。

 

 故に私はアイス・バケツ・チャレンジを肯定的に受け止めることはできない。否定的にしか考えることができない。勿論、寄付の理念を否定する気はない。困っている人を助ける行為を邪魔する意図など全くない。

 

 だから、このチャレンジの一番の問題部分である相手を指名する行為、これはすぐに訂正するべきだ。可能ならば、逆指名するルールに変更するべきだ。

 

 逆指名とは、このチャレンジを行う権利を受ける行為だ。つまり、チャレンジを行った人間は複数人に権利を譲ることを可能とする。チャレンジを行いたい人間は、誰かに依頼してチャレンジの権利を受け取って行えばいい。

 

 チェーンメールは勝手にばらまかれるから問題なのだ。チェーンメールを欲しい人間が持っている人間に受け取りに行くならばどこにも問題は発生しない。興味がない人間は蚊帳の外に立っていればいいのだ。

 

 待て待て、そんな権利、誰が受け取ろうとするのだ?

 

 そう思われる方もいるかもしれない。だが、意外と欲しがる人は多いんじゃないかな? そう思わない?

 

自分で答えを出していると言うこと

40代独身の会社員です

 って増田の日記をみてぽかーんとした。

 

 はっきり言って意味が解らない。

 どうして途中から説教が始まっているんだろ。ってのも全くもって理解不能なんだけれども、それ以前にラストが

 

どうすればいいんだよ。

 

 ってどういうこと?

 自分で答えを出しているじゃない。

 

一生独身でいいとか言ってるやつ今からお見合いパーティーに参加しろ。

人生のパートナーを見つけろ。

 

 って書いているじゃない。

 自分で、これをやればいいじゃない。それ以上でもそれ以下でもないじゃん。だってさ、これからの人生の中で一番若いのは現在って解っているんだからさ。本当に結婚をしたいなら動き出さないと駄目じゃないの?どうしてしたり顔で若者に説教しようとしているの?実は、結婚なんかしたいわけじゃなくって、単純に若者に説教したいだけじゃないの?

 

 この人だけじゃなくって、世の中って意外とこのような人が多い。自分はxxで失敗をしたから、○○をするべきだ。みたいな。そして、そのうちの幾人かは、人に説教をしている暇があったら自分を何とかしろよ。って言いたくなる人だ。

 

 そもそも、俺は失敗した。って人の意見など聞きたくない。ってのが、人の本音だ。人生の成功をした人の真似はしたいと思っても、人生の失敗をした人の意見なんか参考にしたくないのだ。確かに、傾聴するに値する言葉がある場合もある。だが、失敗した人は、自分の中でこうすれば成功したかもしれない。という願望があるだけで、説教している内容が正しいとは限らない。むしろ、間違っている場合もある。

 

 だって、本質的な部分を押さえていないことが多いのだから。思慮が足りていない。考えが深くまで及んでいない。そんな人に限ってしたり顔で説教を始めたりするのだ。

 

 元増田の文章を読み直してみよう。

 多分、違和感があるはずだ。えっ?無い。ま、無い人もいるかもしれない。だが、注意して読めば気づくはず。天涯孤独だ。と書きながら、妹はとうの昔に東北の田舎に嫁いだ。と書いている。

 

 天涯孤独じゃないじゃない。

 新しい友人や彼女を手に入れるのが難しいと言うならば、まずは、妹と連絡を取ってみればいいじゃないか。そこからいろいろな繋がりだって出てくるかもしれない。

 

 どうすればいいか。なんて悩んでいる時間は無駄だ。難しく考える必要は無い。単純だ。ただ、面倒くさいだけのこと。その体を重くする気持ちを振り切って動き出せば良い。それだけのこと。進みだすんだ。両手を目一杯広げて貪欲にアピールすれば道は開ける。涙を拭って外に飛び出せば巨大な世界が待っている。さっさとドアを開けて狭い部屋から飛び出してみろ。そうすればきっと、望んでいるものが手に入るはずだ。少なくとも孤独からは開放されるはずだ。

 

 だって、この日本には一億人もの人間がいるのだから。きっと、望むような人が沢山いるのだから。唯一の敵は殻に閉じ込めようとする自分の心、たったそれだけ。それだけなんだよ。

 

facebookのいいね!ボタンを見ると気分が悪くなる

 facebookってのをあまり好きになれない。つか、嫌い。かなり嫌い。それなのに登録しているのには理由がある。

 

 社会人だったらfacebookに登録しているのは当然だよね~。そんな知った風なことを言ってくる人間がいるってのもある。ソシャゲーの行動力を貰うために必死にいいね!ボタンを押さなきゃいけないってのものある。何となくでもあるけれど、外人とコミュニケーションしなきゃいけない。などと勘違いしたってのもある。

 

 どれもこれも、取るに足らないくだらなく馬鹿馬鹿しい理由だ。偉そうに説明できる理由なんて一つもありやしない。偶々、このページを見かけた人間に鼻で嗤われても、しゃーない。としか言いようがない。だが、そんな意味不明な理由もそこそこ集まれば圧力になる。見れないものを見れる状態にしておくことに意味はあるのだ。

 

 そんなこんなで、表向きは積極的でありながらも内心は消極的だったので、ローマ字のみで登録している。本名を登録することは吝かではないが、リアルの友人に友だち登録されるのが嫌なのだ。

 

 何が嫌なのか。それは、あのいいね!ボタンだ。なんだか知らないけど、押さなきゃいけないような無言の圧力がある。見たくも無いのに流れてくる自慢げな日記に、いいね!ボタンを押さないと人間失格とでも言わんばかりだ。気持ち悪い。おぇー。

 

 匿名でやっているブログ(ここ)やアメブロやmixiやpixivならば(つーか、手を出しすぎだろ俺)、スターや拍手やブクマに狂喜乱舞するのだが、facebookのいいね!だけは駄目だ。自分が押すことは耐えられるが、むしろ押されることに嫌悪感がある。胃がむかむかしてくる。何がいいね!だ。くっだらねぇ。私は、いいね!などと思ってもらうために書いてないんだ。と、画面に向かって文句を言いたくなる。

 

 このように書くと、『友人登録スンナよ』と思われるだろう。それは正しい。ただ、ちょっと待って欲しい。私が自分から友人登録を依頼することは無かったし、今後もないだろう(少なくとも数年は)。

 

 複雑なのは、登録している友人が嫌いではないってことだ。

 えっ?意味が解らない?私も解らないよ。

 

 多分、元々のfacebookは非常に理知的で高慢だったものと思う。ハーバードの仲間が始めたゲームは排他的であったのだ(*1)。書き込まれていた情報も有意義なものが多かったと推測される。それであれば、私だって拒否感など無い。こぞっていいね!を押すことだろう。

 

 だが、今のfacebookはどうだ?いいね!ってほどの情報が流れているのか?

 

 別に、facebookが日記帳であっても問題ない。SNSの使い方に制約を求めるのは、好みではない。常識の範囲であれば、好きなことを書けばいい。

 

 例えば、facebookで、とあるラーメンの書き込みがあるとする。スタミナラーメン。茨城県の特徴的なラーメンの一つだ。ラーメンの上にあんをかけ、カボチャなどの野菜が多めに使用されている。味としては甘辛く、夏ばてした時に食べると元気が出てくる。冷やしスタミナってのもあって、これはスープが無いバージョンだ。あんがスープの代わりになっているから、これはこれで暑い時期には食べやすい。

 この話をラーメンの専門家や趣味だけれども食べ歩きをしている人が分析・解析をしているのならば、いいね!を押すことに躊躇いはない。

 けどね。今日はスタミナラーメンを食べました。美味しかったです。って写真つきの日記にいいね!を押す気にはなれない。押したくない。別に、駄目ね!ボタンを用意しろとは思わないが、悪くないね!とか読了済み!とかのボタン程度にしてくれよ。って思うわけ。

 

 そうは言っても、あるものは仕方がない。押さざるをえない。我慢しよう。友人の書き込みにゃいいね!を押す義務があるから。ということで、目を閉じながらいいね!ボタンをえいっとクリックするのだ。

 

 一応、我慢ができる。いいね!を押すことまでは、気分が悪いものの耐えることが出来る。しかし、自分のどうしようもない書き込みに対し、いいね!をされると耐えられない。眩暈がするほど気分が悪くなってくる。

 

 これが、見知らぬ他人に押されたのならば、それほどの嫌悪感は無い。その人は、本音でいいね!と思ったのだろうから、とても嬉しいことだ。けれども、そんないいね!に値しない私が書いたくだらない書き込みを友人にいいね!とされると胸が苦しくなる。こんな駄文を読ませた挙句に、気分が悪くなるほどの思いでいいね!ボタンを押させてしまったのか。などと考えると、モニタの前で目がかすみ、頭の中で除夜の鐘が鳴り響くのだ。

 

 だから、結局のところfacebookに書き込むことは止めて、何らかのメッセージが飛んできていないかを確認するだけになっている。いいね!ボタンを押すのも嫌だし、押されたら気分が悪くなるのだから仕方がない。仲がいい友人に対して、無駄な労力を強いているのかと考えると、自傷したい気持ちに駆られる。そんな狂った欲求を抑制するのも開放するのもゴメンだ。勘弁してもらいたい。別に、facebookを続ける必要なんか無い。止めてしまえば苦しむことは何も無いのだ。

 

 こんな私の考えに共感できる人はいるのだろうか?多くは無いはず。こんな考え方は異端だろう。だが、ゼロではないはず。ソーシャルで繋がっていたい。と思いながらも、同時に義務を持ちたくない。束縛されたくない。と私と同じように考えている方、無理をしていいね!ボタンを押している方、止めるという選択肢、選んでみれば世界は前後でほとんど変化していないことに気づくはずだ。

 

 了

 

Facebookは排他的だ - Market Hack

 

 

消費税増税で年収300万円世帯の負担は年間40~60万円増

 大変よ。大変。

 消費税の増税で、年収300万円の世帯は年間40~60万円も増税になるんだって。それでなくても、生活が大変だってのに、うちみたいな貧乏一家、どうやって暮らせばいいのかしら。それでなくても、大変だって言うのに、絶対に暮らしていけないって。子供たちだって、塾もあるし。車のローンだっていっぱい残っているのに。消費税の増税って、どれだけ庶民を虐める気? 消費税増税、絶対に反対!

 

 そもそも国会議員が多すぎるのよ。参議院議員なんて必要あるの? あれ、無くしてしまえばいいのに。知ってる? 議員、1人当たり1億円もかかるの(*1)。参議院議員が242人もいるから、それだけで242億円も使っちゃってるの。ホント、無駄。参議院を無くせば、消費税の増税なんか必要ないじゃない。

 

 ちなみに、衆議院議員は480人もいるの。両院無くしたら、消費税も必要なくなっちゃうんじゃない? そうだ。国会議員だけじゃない。地方議員だって公務員だって減らせばいいのよ。そうすれば、消費税自体が必要なくなるんじゃない? だって、使う分が減るんだから徴収する必要も無くなるじゃないの。市町村だって多すぎ。道州制にして、県に2~3つの市だけにして、あとは廃止しちゃえば? 何か問題あるの?

 

 だって、所得税増税したら、負担が年間40~60万円も増えるのよ。ええ、嘘じゃないって。適当なことは言ってないって。ちゃんと、根拠はあるの。ぐぐってみてよ。すぐに本当のことだって判るから、ね、

NEWSポストセブン|増税と値上げで年収300万円世帯の負担は年間40~60万円増

に書いてあるじゃない。間違いないことなんだって……。

 

 そんな自称専業主婦の書き込みを見て、はぁ、と溜息をついてしまった。あからさまな混乱が生じているとしか言いようが無い。若しくは混乱を生じさせられているか。消費税増税後に負担が増えます。これは、正しいとして、消費税増税をせず、所得税と社会保険料で賄おうとすれば、サラリーマン世帯はもっと過度の負担が生じるはずだ。専業主婦のあなたはそれでいいの? と詰問したくなってしまう。だって、サラリーマン世帯は消費税で負担した方が所得税で負担させられるよりましじゃないか。実際問題、以前、税制調査会会長だった石氏はサラリーマンに思いっきり負担させようとしていた(*4)。そして、その試算ベースでは、年間500万円の世帯で年42万円の増税になる(*5)。消費税増税の年32.89万円よりはるかに多い。

 

 勿論、この数字にはレトリックがあって、同じものを論じているわけではないので、単純に比較することには無理がある。しかし、単純に考えて、全体から取る消費税より、所得税(や控除の削減、各種保険料の値上げ)でサラリーマンだけから取る方が、サラリーマンの負担は間違いなく大きいはずだ。

 

 もし、いくつかの論調に見られるように、消費税を増税しないでも財政規律を守ることが可能ならば、その方が望ましい。景気が良くなることで税収も増え、その増えた税収で国債を償還できる。そうなれば万々歳だ。

 

 だが、増税否定派が主張するほど上手くいくとは到底思えない。ギリシャ危機が発生する前には、国債なんかいくらでも借り入れしても問題ない。どうせ、金は国内で還流しているだけだ。と主張していた人間がいつの間にかいなくなったように、無理がある論調のように思える。少なくとも、霞ヶ関は、増税否定派の意見に耳を貸す気など無いだろう。日銀だってそうだ。だから、どうにかこうにか国民から金を回収しようとするに違いない。

 

 重要なのは、その方法だ。消費税が否定されれば、間違いなくサラリーマンに負担を押し付けようとするはずだ。所得税や住民税を上げると言えば感づかれるから、控除を減らしたり各種保険料にでも手をつけたりしてくるのだろう。見えづらいところ、騒がれづらいところを少しずつ上げていく。ホント賢い奴らは……。

 

 それでなくてもサラリーマンは個人事業者と比較して税制上不利な立場に置かれている。コンクリート畑の農民は比較的多めに搾取されているのだ。不平等と騒ぎ立てるほどではないが、これ以上の格差をつけられるわけにもいかない。ベンツが経費として計上されるのに、なし崩し的に控除を削除されたりしてはかなわない。


  そもそも、前述の自称主婦は思いっきり勘違いをしていて、増税の負担が年間40~60万円になるって信じ込んじゃっていて、どうも話がおかしなことになっていた。今、そのページを探してみても見当たらないから、どっかから突込みが入ったのか、夢だったのかは解らない。きっと夢だろう。夢に違いない。うん。

 

 こんな世知辛い世の中だから、夢ぐらいはいい夢が見れるといいのにな。

 

 了

 

*1:【高すぎる?】国会議員の給料(歳費)を各国で比較 - NAVER まとめ

*2:参議院 - Wikipedia

*3:衆議院 - Wikipedia

*4:消費税を増税しないこと

*5:東芝の職場を明るくする会:トピックス:サラリーマン大増税計画!

*6:時事ドットコム:【図解・行政】2016年の家計の負担増(2012年6月)

成果主義とか能力主義とかできっこないじゃん(1)

 アウトプット。成果によって給料を決定する。

 

 もっともな意見に聞こえる。だが、それは幻想である。日本の企業には不可能なことなのだ。以下にそのことを説明しよう。

 

 成果主義が何故上手くいかないのか。一番の問題は評価する側の能力が足りていないからである。優秀な人間、成果を出している人間が正当に評価されない。その結果、優秀な人材が使いこなされず、無能な人間が出世する。すると、出世した無能な人間は、以前より成果を公正に判断できず、よりいっそう混乱させてしまう。負のスパイラル状態に陥っていく。結果など出るはずも無い。

 

 そもそも、評価する側の半数以上は、成果の正しい評価の方法を理解していない。全体的な結果から判断するわけではなく、個人の感情によって判断をする。仕事が出来ているから高い評価を得るわけではなく、残業時間が長い。とか、評価する側の命令に反発をしない。とか、そんな理由で評価が変化するのだ。

 ばっかじゃねーの。そう思うかもしれないが、それが現実だ。世の中は想像している以上に無能な人間で溢れている。あいつは頑張っているから評価を上げてやろう。あいつは上司の意向に沿った仕事をしているから評価を上げてやろうなどと、理由付けなどはいくらでも可能だ。だが、それは全く成果とか能力とか関係ない。残業時間が多ければ頑張っているなどと判断するのは成果主義と対極的な判断方法だ。そもそも、優秀な人間ならば、残業時間を抑制することも可能なのだから。無能な人間に限って、残業時間の多さとかそんなレベルで評価を下したがるのだ。

 日本人は感情的な理由で評価を決定しやすい。客観的だ。と主張する人間に限って主観的に判断をする。論理的だ。と主張する人間に限って感情的に判断をする。正当な評価がなされていないのだ。

 

 それだけではない。評価されている人間が成果を出していない場合もある。

 成果を出していないのに評価される? それは上司(評価する側)が無能なの? いやいや、確かに管理が出来ていない面も否定できない。だが、それより、成果を出している人間が、能力をある人間を囲っており、隠している場合がある。部下を使いこなしている。そう言えば聞こえがいいが、実際には部下が仕事をしているだけで何もしていない人間がいる。毎日、うろうろとしているだけで、成果は部下が出しているのだ。その癖、報告段階には部下を引っ込めて絶対に出させず、全ての結果は自分の実力ですよ。と言わんばかりに大きな顔をするのだ。この場合、組織が変更が無ければ上手くいく場合もある。評価されている人間も位が上がれば、自分の部下を引き上げることもある。けれども、優秀な部下がいなくなった瞬間に張りぼては崩れる。部下ならまだしも外注であればもっと悲惨だ。一寸先は闇なのだ。

 

 大企業であれば、人事制度の問題もある。見えない人事を行う難しさは筆舌に尽くしがたいだろう。だからと言って、事業部自体に任せていては、評価なんて出来るはずも無い。下から上がってくるデータシートを舐めるだけなら、コンピュータにでもやらせればいい。評価する側の能力をコントロールできていないことも多いのだ。

 

 そもそも、ある一定の年齢までは、自己裁量権が限られている。成果なんて出すことが難しいし、出したとしても無能な上司になら盗まれてしまう。能力主義です。などと会社から言われたとしても他人事のようになってしまう。

 

 もし、成果主義や能力主義を行いたいなら、評価制度を考えるべきである。正当な評価ができるのならば、会社を成長させる原動力になるだろう。事実、中小企業で隅々にまで目が届くのならば、成果主義を効率的に利用できるだろう。ただ、ワンマン社長に限って、根性論とか成果主義と反対側の思考を持っていることが多く、悲惨な成果主義になりやすいのだが。

 大企業はもっと状況が複雑なはずだ。自己目標管理制度など使ったとしても、成果主義を反映させるのはかなりの困難だ。あれは、声が大きい人間のかつゲームなのだ。いい加減にやめたらいいのに。

 明日は、その点について書いてみたい(要望があれば)。

 

 了

病院に行ったら消費税増税を批判していた

 風邪をひいた。バカではないことの証明。などと考える余裕はない。38.5度、車の運転はかなり危険だ。仕方がない。歩いていける病院に行こう。

 

 健康保険証と財布をポケットに突っ込み、一番近くの医院に向かう。病院、というより、小学生の習い事に似た建物の中に入る。住宅のような三和土があり、靴を脱いでスリッパに履き替える。クラクラしそうな違和感を覚えながら、木製のカウンターの向こうに座っている丸々太ったタヌキ……じゃなくって、おばさんに診察券を出す。

 

「あんた、初めて?」

 

 おばさんの態度にいらっとするが黙って頷く。

 

「あんた、初めてかい?」

 

 殴りたくなった。だが、拳を握る力もない。

 

「はい」

「じゃあ、問診書いて」

「ええぇ」

「あんた、とろいねぇ。ここにあるじゃないの」

「書くものは……」

「そこにあんでしょ」

「ありませんが……」

「良く見な……へんねぇ、さっきまであったのに、これ使いな」

 

 既に殺意マックスである。非暴力主義者の私だが、健康ならば黙って踵を返していたであろう。だが、そんな気力はない。処方箋をもらうまでの我慢我慢。その場で問診表を書こうとすると、

 

「あんた、体温計」

 

 おばさんが指差す先には、空き缶の中にオムロンの電子体温計が一つ。

 

「測ってきましたけど」

「何言ってんのあんた、家から来る間に変わったかもしれないじゃない」

 

 言っていることは間違っていない。可能性としては否定できない。しかし、歩いて五分の距離だ。十分も経っていない。無意味としか考えられない。それに、その空き缶の中の体温計は使いたくない。

 

「でも、すぐ……」

「あんた、測りなさいって。測って損することないじゃない」

 

 おばさんは私の言葉を聞く気がないらしい。相手にするのも疲れるから、体温計を取りトレーナーの丸首から突っ込んで腋で挟む。三分だか、五分だか経って音が鳴ったので取り出し体温を確認する。さっきと同じ38.5度。カウンターでその数値を書こうとすると、

 

「あんた、何、勝手に書こうとしてんの。見せてごらん」

 

 おばさんに体温計を渡す。

 

「38.5度、ほら、問診に書きな」

 

 このおばさん、殴っていいよな? 捕まらないよな? 私は悪くないよな? 心の中でフルボッコにしながら、問診表に数値を書き入れる。

 

「順番が着たら呼ぶから待ってて」

 

 もう、腹立たしさすら覚えない。怒りのエネルギなんてとうに失われている。私は言われるがままに、壁際の長椅子に腰をかける。横には一人の柔和なおばあさんがいるだけ。すぐに呼ばれること間違いなし。

 

 そう思っていると、新しい患者が入ってきた。どうみても元気そうなおじいさんだ。口を半開きにして、こんにちはぁーと大きな声を出す。

 

「あらー、久しぶりじゃない」

 

 おばさんの態度が変わる。反射的に奥歯を思いっきり噛む。音叉を間近で鳴らされたような頭痛が全身を伝播していく。

 

「最近、厳しくなったからのう。毎日のように来れんのだよ。これで消費税が上がったなら、二週間に一回のペースになっちまうわい」

「それは、困りましたねぇ」

 

 二人の笑い声が、頭蓋骨をきしませる。頭が痛い。助けてくれ。

 

「サラリーマンの税金を上げればいいんじゃ。ほんに、わしらのような弱者の負担ばかり増やすようなことばかりやりおって」

「そうですわねぇ。また、J党にはお灸をすえないといけませんわねぇ」

「前の選挙ではI会に喧嘩を売ったJ党を叩きのめしたからのう」

「でも、ほら、M党にしたら、うちらもお灸をすえられちゃいましたからねぇ」

「ほうよのう」

 

 鬱陶しい。耳栓でもないものか。犬のように荒い呼吸を繰り返していると、おばあさんが呼ばれ、別室に消えていく。もうすぐだ。我慢しろ。病人なんだ。難しいことを考える必要はない。呪文のように繰り返していると、おばあさんはすぐに別室から出てくる。おじいさんとおばさんの会話は続いたままだ。

 

 嫌気も溜まれば吐き気になる。この場所にさっき飲んだスポーツ飲料をぶちまけたい。要求に負けそうになる。だが、ここまで待って帰るのもしゃくだ。さっさと、先生に診てもらい帰るんだ。と心の中で念じていると、

 

「わしの番かの」

 

 とおじいさんが呼ばれて別室に消えていく。

 

 ちょっと待て。さすがに温厚な私だって、コレばっかりは納得が出来ない。いい加減にしろ。怒りは頭痛も熱もすっ飛ばし、長椅子から立ち上がらせる原動力になる。カウンターのおばさんに向かって

 

「あのー、私の方が先に……」

「あ、予約だから」

「はっぁ?」

「あの人、予約なの。だからあんたの番は次ね」

「はへっ?」

「診察の前に糖尿病の検査するから」

「いりませ……」

「うちの決まりなの。あんた、糖尿病だったら困るじゃない。自分の体よ。ちゃんと病院にきたら調べないと」

 

 言っている意味が理解できない。38度の熱があるのに診察の前に糖尿病の検査をする? その必要性は何処にある?

 

「老人の診療の2割負担なんか止めればいいんですよ。そういう意味では……は頑張ってくれていますよ」

「先生のおっしゃるとおり。もっと、サラリーマンから取ればいいんですよ。健康保険料を2倍にしたって、馬鹿なサラリーマンじゃ文句もいいやしませんよ」

「駄目ですよ。そんなに上げたら。2割り増しくらいに押さえて、生かさず殺さずで払わせないと」

「さすが先生。お医者様はわしら凡人とは違って頭が切れますのう」

「消費税増税なんてもってのほかです。弱者のことを考えていません。現役世代の健保と介護料で負担させるべきです」

「先生のおっしゃるとおり。現役に払わすべきです。わしらのおかげであいつらは飯が食えてるんですからの」

 

 話は終わりそうに無かった。永遠に続いていくように思われた。このままこの場所は、地球上のあらゆる場所から隔離され、浦島太郎のようなまだるっこしい時間が流れていくように感じられた。

 

 甲高いおじいさんの声が響き渡ると、気持ち悪さを耐え切れなくなった私は、耐えようとする気力すら失って、その場にスポーツ飲料をぶちまけた。

 

 了

*:これは、掌編小説です。100%フィクションで現実世界とは全くの関連性がないことを明言しておきます。